荘厳寺の沿革

 荘厳寺は天長九年(八三二)慈覚大師円仁によって創建された寺院である。当初、円仁自作の観音菩薩像を安置し「観音妙法体同」という言葉から寺名を妙法寺と呼び「東福院別当坊」と称した。また本尊の阿弥陀如来像は慈覚大師が唐の五台山より奉じてきた霊仏なので山号を「御堂山」とも称した。
 その後、数百年を経て中興の祖英尊阿闍梨(永承五年頃 1050年)の時代に諸堂が再建修覆され、伽藍の壮大なことから山号を「大御堂山」に変え、寺号も妙法寺から「荘厳寺」に改められた。境内には十七坊(別当坊、堂内坊、行正坊、大覚坊、常住坊、大円坊、実乗坊、西林坊、大乗坊、円融坊、大門坊、前妙坊、正意坊、名本坊、実蔵坊、覚住坊、用月坊)が甍を並べ、台密修学の古刹として栄えたと言う。
 永承六年(1150年)に源頼義が奥州に向かう途中(前九年の役)、当寺に参詣して戦勝を祈願、安倍氏平定後は大檀那となって諸堂を改築した。源頼朝も奥州平泉の藤原氏征討の際に同寺で戦勝を祈願したと言う。また建久四年(1193年)に那須野が原で狩りをした時、荘厳寺に三十町を寄進して祈願寺とし、お前立の阿弥陀三尊像を運慶に作らせた。その時の住職が鎌倉の鶴岡八幡宮の供僧であった荘厳坊行勇阿闍梨であり、この時代に寺は大いに栄え、門徒十ヶ院が開基された。即ち寺内の千明院、中村の神宮寺、中里の覚善院と一乗院、大和田の明光院、下大沼の善門院、粕田の宝性院、上大沼の観音寺、長田の福性院、柳林の清水寺である。 

本堂
平成10年 落慶

 江戸時代には朱印地七石を受領、末寺も十ケ寺あったが弘化三年(一八四六)と明治三九(一九◯六)の火災で堂宇の大半を失い、一時衰微しかけたが歴代住職と檀徒一同の尽力によって本尊阿弥陀如来像と両脇侍像及び居貫不動明王像が修理され、さらに平成十年三月八日に大御堂が完成して落慶法要が営まれた。
 境内には古来より源頼朝公の供養塔と称する鎌倉時代の層塔や五輪塔、板碑等も多くあり、大御堂や庫裏の裏側には空掘や土塁があって往時の姿がしのばれる。